飯笠山神社の歴史
古代から中世
飯笠山神社が鎮座する有尾地区は飯山市街地よりも早い時代に拓け、集落が形成されていたと言われており、当社周辺からは縄文時代の土器や石器、住居跡なども多く発掘されています。中世に入るとこの地区では諏訪明神や少彦名神がまつられ、永く産土神(その土地の神)として崇められていました。
室町時代
室町時代に入り、応永年間(1394~1428)、当時飯山城(現在の城山)を居城としていた清和源氏の流れを汲む泉氏が相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請した神様を城内にまつり「飯加佐(いいかさ)八幡」と称したのが飯笠山神社の信仰の始まりであるとされていますが、由緒については諸説あり詳しいことはわかっていません。ちなみに「飯山」という地名はこの飯山城のあった場所が “飯(めし)を盛った山”のような形であったことが由来であるとされています。
戦国時代
戦国時代に入ると、飯山城は甲斐・武田勢(信玄)に対抗するために信濃に出馬してきた越後・上杉勢(謙信)にとって重要な場所となりました。上杉謙信が飯山城を策源基地に選び、その際城内にまつられていた飯加佐八幡を現在の鎮座地である有尾に移したと伝えられています。当時、有尾の地では以前より諏訪明神や少彦名神がまつられていたため、移されてきた八幡神と併せて崇められることとなりました。以降、飯笠山神社と呼ばれるようになり、歴代の飯山城主から社領の寄進を受けるなど、飯山城の鎮守として厚く崇敬されることとなったのです。
江戸時代
江戸時代後期になると国中に国学が台頭し、庶民にも普及したことも影響し神社信仰は大きな高まりを見せました。飯笠山神社ではこの時期の棟札(神社建築・修築の記録)が多く保管されており、その棟札の記録によると、現世利益などの庶民の個人的祈願がさまざまな神に向けられるようになり、旧来の土地で信仰されてきた産土神(うぶすながみ)のほかに新しい流行りの神が村に勧請されるようになった様子がわかります。
慶長17年(1612) | 第23代宮司、大和大夫により牛頭天王社を建立 |
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承応4年(1655) | 当時の飯山藩士により飯綱社を建立 |
寛文12年(1672) | 藩主松平公の姉、比丘尼雲院により薬師如来堂を建立 |
寛政12年(1800) | 庚申講により猿田彦神を建立 |
文化6年(1809) | 宮司、小川吉梁により比良木神を勧請 |
※年代不詳 | 東照宮、稲荷社を勧請・建立 |
大正13年(1924) | 摂津、西宮神社より恵比寿大神を勧請 |
もともと有尾の地にまつられていた諏訪明神や勧請されたものの飯綱神の信仰は影を潜めてしまいましたが、諏訪信仰のシンボルでもある「薙鎌」はその信仰の名残として現在も神社で大切に保存されています。
このように飯笠山神社は時代の要請に応じる形で様々な神が勧請され、接社・末社として崇めまつり今日に至っています。
文化財
中世の頃、飯山城代岩井信能公の寄進状で諏訪神や飯綱神も祀られていたことが確認できます。現在、諏訪神や飯綱神は影を潜めましたが、諏訪神のシンボルである「薙鎌」が残り、また本殿の棟の両端に着けたと思わせる鬼神面も文化財的価値を持つものとされています。
薙鎌 (ないがま)
諏訪信仰特有の呪具で、草を刈る鎌の形に似ていることから「薙鎌」と呼ばれていますが、鎌ではなく口や目があり背に鋸目が付いていて、出雲族の系統に見られる土俗の蛇体のシンボルとされています。
鬼神面
室町後半のもので中世の頃、本殿の棟の左右に飾られており、県内では五束の神社のものとともに貴重な文化財とされています。
岩井信能 寄進状
文禄5年(1596)10月24日、当時飯山城代であった岩井信能から「飯加佐八幡めん事」「諏訪めん」で有尾八幡宮と有尾諏訪宮へ十俵ずつ社領を寄進した書面です。
堀丹後守直寄 寄進状
元和2年(1616)8月15日、堀丹後守の家老、堀織部佐長次よりの寄進状です。
佐久間安次 寄進状
寛永9年(1632)11月10日、この寄進状では「八幡免」が三石、「諏訪免」が一石となっていて八幡宮と諏訪宮の間に差がついていたことが伺えます。天和2年(1682)の松平遠江守忠倶の時代の書き上げでは「飯山有尾八幡宮一座・薬師堂一宇・末社飯綱宮」となっていてこの時点で諏訪宮は消えてしまっています。
旧領主 尾崎家から贈られた漢詩
慶長3年、上杉景勝の移封に従って会津、米沢へ所替えした尾崎家の子孫が古き良き時代を偲んで作詩して、享保19年(1734)に贈ったものです。